住職 挨拶

それ仏法 はるかにあらず

心中にして 即ち近し

「般若心経秘健」で弘法大師が言われるように仏様は遠くにあるのでは無く、皆さん一人一人の心の中におられます。

安養院本堂の仏様の前で心静かに手と手を合わせてお参り頂ければ、自分の心の中の仏様に出会うことが出来ると思います。

そして、先祖や家族との絆に思いを寄せ、自分自身を見直す場にしていただきたいと思います。

 

安養院の沿革

平安末期  鉄宮山来迎寺安養院の開山の年は不明、寺伝によれば、安養院は、平安時代末期、下田村 大浦馬場 日随谷(ひずいだに)池の平に開創する。

当時、安養院は、「池の寺(いけのてら)」と言われ、白山権現信仰(はくさんごんげんしんこう)の寺であった。

その白山権現(はくさんごんげん)の主神である、白山菊理媛(はくさんくくりひめ)の本地仏(ほんじぶつ)、十一面観世音菩薩(伝、行基菩薩御作(ぎょうきぼさつおんさく))を本尊として、十代の間、法相宗(ほっそうしゅう)の寺院であった。

室町時代中期、英筭(えいさん)住職(永正六年十一月四日寂)の時に紀州根来寺(きしゅうねごろじ)の、新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)に改宗する。

鎌倉時代、この地が大面の庄と呼ばれていた頃、釜蓋城(かまぶたじょう)という出城(でじろ)があり、安養院は、この城の祈願寺としての役割を果たしていた。

永正三年~十一年(一五〇六年~一五一四年)上杉家の内乱で、越後の大乱といわれた、関東管領上杉顕定(かんとうかんれいうえすぎかねさだ)と越後守護上杉定実(えちごしゅごうえすぎさだざね)が争った「永正の乱(えいしょうらんのらん)」で戦功のあった定実(さだざね)側の三条城主 山吉久盛(やまよしひさもり)の家臣の佐藤弥太郎の領下に入ったが、釜蓋城(かまぶたじょう)は、永正八年(一五一一年)八月に廃城となる。

元和三年 (一六一七年)江戸時代前期 憲英(けんえい)住職の代に寺が焼失し、招請されて三条市一ノ木戸に移寺する。

慶安元年  (一六四八年)また、憲英住職の弟子の、弥彦村出身の隆長(りゅうちょう)は、水戸光圀公の親である徳川頼房に選ばれて光明院の住職となり、その後、埼玉県の明星院、東京都墨田区の弥勒寺の住職を経て、真言宗智山派の総本山智積院の五代目の能化(のうけ)に就任する。

当山の本尊、阿弥陀如来は、隆長能化(りゅうちょうのうけ)が師僧に感謝し、京都の仏師である林左近(はやしさこん)に作らせて贈ったものである。

享保二年 (一七一七年)江戸時代中期 勢力争いのために左遷されていた村上藩主、松平輝貞(まつだいらてるさだ)が八代将軍徳川吉宗に重用され、高崎藩主に復帰し転封する。

高崎藩の境界である、一番目の木戸を守る要所にある安養院に、藩主の帰依が厚く、同藩の祈願寺となり、明治の四年まで祈願料の寄進があった。当山には、高崎藩主松平輝貞(まつだいらてるさだ)のお位牌が奉られている。

明治三十三年 (一九五八年) 新義真言宗が智山派と豊山派に分かれる際智山派に属し、今に至る。